見えない真実 ~薬事法違反に問われた経営者の180日

強制捜査の日

 その日の午前九時、十二年もの歳月をかけて吉田明男が築いてきた城が崩れた。目前に広げられた一枚の紙切れに吉田は呆然とするしかなかった。憤りもあるにはあったが、それをぶつける相手に取りつく島もなかった。崩壊の序曲は捜査主任だと名乗ったF署生活安全課の磯辺の第一声だった。
「薬事法違反で捜査令状が出ています。ご確認ください」
  どうして、どこが、なぜ? 沸き上がってきたすべての問いかけは「どういうことですか?」の間の抜けたフレーズにしかならなかった。
「この令状にあるとおりです」と捜査主任はいたって冷静だった。フレームの細い黒ぶち眼鏡にていねいに撫でわけた七三のヘアスタイルから、吉田は会計士や税理士の固い職業を連想したが、目の前の男は紛れもなく捜査官だった。
管轄の裁判所命で出された家宅捜査令状を執行すべく、捜査主任が合図すると事務所の内外で待機していた二十人近い捜査官たちがいっせいに動き出した。
「ちょ、ちょっと待ってください。法に違反することなんかしていない、これまできちんと事業をやってきたんだ。それなのに私たちがなにをしたというんです ?!」
  ようやく吉田は訴えたい言葉を口にし抗議に変えた。しかし捜査主任を思いとどまらせることはできなかった。
「落ち着いてください、吉田さん。この令状にあるとおりです」磯辺は同じ文句を繰り返した。静かな口調には強い制止があった。表情はあくまでも事務的でありながら、それ以上の質問は赦さない威厳が垣間見えた。それでもなお食い下がろうとする吉田を無視し、彼を含めた社員全員を応接室に集めておくよう部下に指示した。
  机のもの、パソコンなどには触らないでください。私物であろうバッグを取り上げようとした女性事務員に捜査官のひとりが声をかけている。まるでテレビドラマのようだと吉田は思った。国税局査察官の活躍を描いたドラマだったと吉田は漠然と思い浮かべ、それが自分の事務所で再現されていることに非現実感が募ってきた。けれどもわなわなと唇を震わせた女性事務員の青ざめた顔が現実であることを彼に思い知らせた。
  狭い応接室に吉田のほか営業部長の鈴木と女性事務員、それに先月入社したばかりの新入りの社員全員が集められた。磯辺が応接室の入り口に立って彼らと事務所の捜査状況を交互に監視している。開け放たれたドアの向こうでは絶えまなくフラッシュが焚かれ、事務所内の様子や壁に貼ってあるポスターや売上推移表などを撮影している。撮影が一段落すると商品やパンフレット、チラシ類、さらには壁際に並べてあるキャビネットや社員のデスクを暴きたて、帳簿や仕入れ伝票、納品書、請求書、領収書、会員名簿の類いを選りすぐって段ボール箱に詰めていく。その際に吉田や鈴木や女性事務員が呼ばれて資料の説明と確認をさせられるのだが、そこでも質問はいっさい赦されなかった。
  十坪ほどの事務所であるのに、よくもこれだけの人数が入り込み、しかも驚くべき手際の良さで資料を整理していくものだ。吉田は妙に感心してしまったのだが、その黒い影は疑いなく彼が積み上げてきた十二年間を無に帰すために集まってきた不吉な使者そのものであった。
  なんでおれが薬事法違反なんだ? と彼は改めて思った。ドアのそばに立つ磯辺を見ても答えてくれるはずはなかった。ふと広告代理店の審査部担当者の顔が浮んできた。それから新聞広告やチラシを制作したときにおうかがいを立てる県庁の薬務課担当者の顔。通信販売での健康食品販売を主業務にしている〈ハピネス〉にとって、レスポンスの高い広告やチラシ制作はもちろんのこと、その一方で薬事法や特定商取引法あるいは景品表示法などの関連法規を遵守することも事業の根幹にかかわることであった。そのため彼は自ら広告代理店や県庁へ赴き、表現や表示内容について関連法規に抵触していないかのチェックを仰ぎ、少しでも「危ない」ところがあれば従順なくらい指示にしたがい、適正な販売方法を心がけてきたつもりだった。健康食品という商品の特性上、グレーゾーンがあったことはたしかだ。しかしそれが赦される範囲であるのか、そうでないのかは広告代理店でも薬務課でも明言し指導してくれるわけではなく、のらりくらりと逃げ口上を述べては自己責任という囲いへ追い込もうとする意思が見え隠れしていた。
  そうだ、これはまちがいなんだ。その証拠にこいつらは「薬事法違反」を繰り返すばかりで、どこがどう違反しているのかを明らかにしようとしない。いや、できないんだ──その考えに吉田はすがりたかった。しかしそんな彼の逃げ場を封じるように磯辺がいった。
「これからご自宅へご同行願います」
  真実が見えないまま、吉田はこの悪夢がまだはじまったばかりであることを思い知るしかなかった。

 黒いワゴンに乗り込むと案内も必要なく彼らは吉田の自宅へと向かった。車中での会話はほとんどなかった。自宅までの長い道のりを彼は「なぜ」を反芻しているしかなかった。
  自宅マンションの前にも黒塗りのワゴンが駐車していて、吉田は事務所だけではなく自宅にまですでに捜査の手が入っていることを悟った。妻の良子とひとり娘である幸子の顔が浮び、無意識のうちに腕時計に目をやった。幸子は小学校に行っているはずの時間だった。四十路を過ぎて授かった幸子を彼は溺愛していた。その娘にこの様を見せたくはなかった。
  マンションはいつもと変わらぬ静謐であったが、自宅のなかは事務所と同じように数人の捜査官がところ狭しと関係資料を物色しているところだった。
  放心の態でリビングの入り口に立ち尽くしていた良子が夫に気づいた。
「あなた、これはどういうことなの──」すがりついてきた妻の両目にみるみる涙がたまった。「突然このひとたちがやってきて、あなたに連絡もできず……」
  困惑よりも恐怖をその表情に読み取り、吉田は無力感に苛まれた。
「わからん」としか吉田はいえなかった。いうべき言葉が見つからなかった。彼自身、いま目前で繰り広げられている光景が理解できないでいる状況では、妻を慰める言葉ひとつ思い浮かばなかった。リビングから書斎、夫婦の寝室、キッチンそれに幸子の部屋まで探索する捜査官たちの手際の良さに感心しながら、吉田は磯辺を目で追った。磯辺は捜査官を指揮しながら押収資料を選別しているようだった。その表情に険はなく、やはり捜査官とは思えないある種の穏やかさに似たものがあった。しかしそれは職務を忠実に実行している捜査官の機械的な表情のひとつであるのかもしれない。しかし吉田はその表情が崩れ、困った顔した磯辺が「いやあ、申し訳ありません、どうやらこちらのまちがいみたいでした」といってくれるのを期待したかった。けれども磯辺はあくまでも機械的な表情のまま彼と目を捉えた。
「吉田さん、ちょっといいですか」
といって磯辺が彼に差し示したのは、新商品の企画書とパッケージ見本だった。
「これはまだ販売していない新しい商品ですか?」
「はい、そうですが……来月に売り出す予定の商品です」
「そうですか。しかしまあ、これも一応は押収させてもらいましょう」と磯辺はいったが、なぜか歯切れが悪かった。
「一応とはどういうことでしょう」
「いや、なんでもありません」
  磯辺の関心はすでにそこにはなく、次の資料へとその目は移っていた。
  それから一時間ほどで自宅の捜査は終わり、吉田は再び磯辺たちとともに事務所へ戻ることになった。自宅を出るとき吉田は「大丈夫、心配いらない。きっとなにかのまちがいだ」とようやく妻を慰める言葉を口にした。しかしその言葉は弱々しく、きっと彼女を慰めることはできないだろうと彼は思った。これから彼女は荒らされた部屋を片付けなければならないのだと考えると胸が痛んだ。胸の痛みは不条理だとは理解しつつも磯辺への怒りを生んだ。
  事務所に戻るとそこもあらかた捜査は終わっていて、段ボールを積み込んだワゴンが指揮官の到着を待っている様子だった。
  現場の担当者に声をかけてから磯辺がいった。
「吉田さん、捜査は終わりましたのであとはどうぞ仕事を続けてください」
「磯辺さん、もっと詳しく説明してもらえませんか」
  堪え切れない怒りが吉田の語気を強くした。