見えない真実 ~薬事法違反に問われた経営者の180日
否 認
考えるということの困難さを吉田は思い知っていた。パトカーを降りるとき、若い刑事が両の手首を隠すためにさり気なく巻いてくれたジャンパーにさえ彼は気づかなかった。ぼんやりと思い浮んだのは、運転免許証の更新のため1年半ほど前にこのF署に来たときのことだ。受付で担当部署を訊ねたのだが、きょうはその必要もない。磯辺を先頭に彼らの一団は奥へと進み、階段をのぼった。
〈取調室〉と書かれた一室は3階のいちばん奥まったところにあった。テレビ番組で観るほど暗い一室ではなかったが、窓にはやはり罪の意識を増長させる鉄格子がしっかりと嵌め込まれていた。
犯罪者なのか、おれは……?
パイプ椅子に座らされた吉田は思った。若い刑事が手錠を外してくれた。気がつくといつの間にか磯辺の姿がなかった。ふたりの刑事は沈黙を押し通したまま、吉田のかたわらと入り口に立っていた。不穏な雰囲気はなかった。刑事たちは淡々とした表情で職務をまっとうしていた。そこに犯罪者がいるのに気づいていないような、しかしそれでも神経を尖らせ彼を監視している。
蜘蛛の糸に囚われているような錯覚。恐怖におののきながらもどうすることもできず、思考も停止し、語るべき言葉ももたない。
ドアが開いて磯辺が入ってきた。吉田の目の前に腰をおろし、改めてスーツの内ポケットから逮捕状を取り出し机の上に広げてみせた。
「吉田さん、この通りです。薬事法違反で逮捕します。これから取り調べを始めます」
「ちょ、ちょっと待ってください。どういうことなのか──」
あのときと同じだった。淡々と話を進める担当捜査官。有無をもいわせず、事実確認を進めていく。考える暇さえ与えずに。Yes・or・No、さあ、どっち?
「名前は吉田明男さん、お住まいは──ですね?」
「はい、そうです」
「本籍は、──ですね?」
「はい、そうです」
個人的なことから始まった質問に吉田は驚愕した。どうしてこんなことまでと思えるものまで含まれている。これが警察の捜査能力の高さなのか。そして事業についての質問へ。
「ハピネスの設立は5年前ですね?」
「はい、そうです」
「健康食品なんかを売っている会社ですね?」
「はい、そうです」
「〈ハピネスα〉という商品を売っていましたね?」
「はい、そうです」
事務的に質問しては一つひとつ確認していく作業の繰り返し。そして資料を取り寄せ、また続く事務的な質問。
「このパンフレットを配付していましたね?」
「はい、してました」
初めから筋書きの決まっている台本を読んでいるような錯覚。「はい、そうです」以外の答えのない質問ばかり。それが吉田を不安にさせた。
「磯辺さん、ちょっと待ってくださいよ。以前にもいいましたが、状況がわからないんですよ。どこがどういうふうに違反しているのか、それさえもわからない。いったい、どう答えていいのか──」
磯辺の答えはなかった。こちらの質問をまったく受け付ける意志のない威圧感を示し、取り調べは続いていく。
吉田はあることに気づいた。
「そうだ、弁護士を呼んでください。それまではなにもお答えしません」
こういう場合、もっとも頼りになるのは弁護士ではないか。竹田に連絡してもらうのが常道じゃないのか? それに対する磯辺はこれまで見せたことのない鷹揚ともいえる態度で椅子の背もたれに深く腰かけた。
「吉田さん」その口調は子供をあやす甘さで彼を諭そうとしていた。「弁護士さんを呼ぶのはかまいませんが、はっきり申し上げて印象がですねえ……」そこで磯辺は口を噤み、吉田の出方を待った。「あなたが薬事法違反であることは、もうはっきりしているんですから」
それは抵抗するなということなのだろうか? 無実の人間が潔白を晴らすために戦ってはいけないのだろうか? けれども吉田は権利を放棄した。このまましばらく様子をみようと自分をごまかして。決して磯辺の圧力に屈したのではない。いまはこれしか方法がないんだ、と思い込もうとした。
小休止を挟んでようやく取り調べが終わったのは午後3時過ぎのことだった。
そして生まれて初めて入った留置場。そこは想像したよりもずっと冷たい場所だった。夜、吉田は募る孤独感に苛まれ一睡もできなかった。
翌日も午前9時から取り調べが始まった。昨日と同じように事実確認に徹する内容だった。同じことの繰り返し。商品やパンフレットなどの証拠資料を前にして、「〈ハピネスα〉を販売していましたね?」「はい」、「これを使っていましたね?」「はい」。しかしこの日はもう一歩踏み込んだ質問もあった。「どうしてこれを配って販売したの?」「だれがこれを作ったの?」「どうしてこんな健康食品なんか作ったの?」──。
こんなとはなんだ! 多くのひとに健康になってもらいたから作ったんだ! これはおれの心でもあるんだ! 言葉にならない抗議を内に秘めながら、吉田は忸怩たる思いで時間を耐え忍んだ。
質問は磯辺の主導で進んで行った。この日は患者に話しかけカウンセリングする精神科医を連想させた。あるいはペテン師の催眠術士を。事実とは違うことがいっぱいあるにもかかわらず、吉田は「はい」という肯定を続けなければならなかった。
どうしてだろう? と彼は自問してみたが、磯辺の巧みな術中にはまってしまったかのように、答えは「はい」以外にはあり得なかった。
「薬事法を知っていましたよね?」
答えはもちろん「はい」しかない。「しかし──」と、このときばかりは吉田は続けた。「違反するつもりはなかったし、違反しているとも思っていなかったんですよ、わかってください」
ようやく口にできた主張だった。けれどもそれは口にすべきものではなかった。背後に立っていた若い刑事がぽつりとつぶやいた。
「それは否認になるなあ。印象悪くなるなあ」
「いや、否認なんて……」慌てて取り繕いながら、吉田はこのとき確信した。これは初めから敷かれたレールであることに、すでに目的地は決まっているのだ、行き先を変えることなどできるはずがないし、後戻りなどすることなど論外だし、反論することさえもできないのだ、と。
数拍の沈黙のあと、磯辺が話題を変えた。
「吉田さん、お子さんはおいくつですか? 早く自宅に帰りたいでしょう」そしてしばらく当たり障りのない雑談。釣りが趣味というと渓流なのか海釣りなのかと聞いてくる磯辺。いまの時期はなにが釣れるのか、どんな仕掛けがいいのかなど、捜査官の顔とはまた違った表情で聞いてくる。しかし吉田が感じた違和感は、磯辺はここでも質問するばかりで答えを受け止めるだけ。すべてその繰り返しだった。ここが取り調べ室であること、尋問を受けているということ、薬事法違反で逮捕されたことを吉田は磯辺から質問されるたびに思い知るしかなかった。
これもバラバラになったジグソーバズルのパーツをはめ込む作業のひとつなのだろうか? 吉田は無力感の先にある絶望の淵を覗き込みながら、パズラーの求めるパーツを提供し続けていった。しかしすでに彼自身が絶望の淵にたたき落とされていることに気づいていなかった。
逮捕から2日目のことだった。同じように事実確認の繰り返しの取り調べが延々と続いていた。逮捕の日からほとんど寝ていない脳味噌は思考を停止しつつあった。わずか2日であるのに、ずいぶんと遠くまで来てしまったような気がしていた。早く家に帰りたい、早く家族に会いたい、それだけが思考を支配しつつあった。わずか2日、それだけでこれほどひとは弱くなってしまうものなのだろうか。吉田は決して自分を弱い人間だとは思っていなかった。けれども単調ともいえる取り調べは人間の気力も体力も少しばかりの矜持さえも容易に打ち砕いてしまうことであることを思い知らされた。
弛んだ脳の思考が一瞬だけ覚醒するのは、いつも背後に立つ若い刑事のつぶやき。
磯辺の質問。
「この健康食品で病気とか治るんでしょう? パンフレットを見るとそう思えるんですよねえ」
「いや、そうじゃないんです、そんなことは──」と吉田は答えようとする。するとすかさず例のつぶやき。「ああ、また否認ですか」
吉田ははっとして口を噤み、磯辺の問いに対し肯定する言葉しか口にできなくなる。しかしこのときばかりはいわなければならないと彼は思った。
「ここだけは、はっきりさせたいんです。そういう誤解がないように気をつけてきたんです。薬務局へ相談にも行きましたし、広告代理店に相談もしました。でも──」
そのとき、磯辺がさり気なく机の引き出しから折り畳んだ新聞を取り出し、吉田の前に広げてみせた。
〈薬事法違反で健康食品業者逮捕〉の見出しが踊っていた。