見えない真実 ~薬事法違反に問われた経営者の180日
ほぐれぬ糸
クライアントを前にした弁護士とはこういうものかと吉田は感心した。強制捜査から二日後の午後、ようやく時間のとれた竹田と会ったのは地裁そばの喫茶店だった。事務所で会ったときはいつもラフなスポーツジャケットを着ていたのに、濃紺のスーツにライトブルーのネクタイをきちっと絞めたこの日の竹田はまるで別人のような頼もしさを醸し出していた。
「きょうは一日中、裁判なんですよ」といって席についた竹田は単刀直入に切り出した。「それで、その後なにか警察から連絡とかありましたか?」
「いえ、こちらにはなにも。ただ、昨日からうちの取引先をしらみつぶしにまわっているようです」
ふむ、といって腕組みした竹田は眉間にシワを寄せて黙り込んだ。注文したコーヒーが届いたのをきっかけに吉田が口を開いた。
「先生、これからどうなるんでしょう? それにどうしてこんなことに」
「吉田さん、先日も申しましたが、いまはなにもできません。実は吉田さんから連絡をもらったあと、知人の警察関係者に聞いてみたんですよ。しかし現状として、まだ捜査段階ですからなにもわからなかった」
「弁護士の先生でもわからないんですか」
竹田が苦笑してコーヒーをすすった。
「いまいえることは、私も吉田さんと同じで、なぜという疑問しかありません。このあと、当局がなんらかのアクションを起こせば、違った角度から物事が見えてくるかもしれませんが、それだけ警察の捜査とは機密性の高いものなんです」
はあ、と吉田は答えたものの、釈然としない思いで話の続きを待った。
「吉田さんをがっかりさせるつもりはありませんが、私に限らず、薬事法に精通している弁護士というのはあまりいないんですよ。もちろん法律としての解釈はできます。しかし現実に薬事法が適用された場合、私たち弁護士のものさしになる判例が少ないんです」
「判例が少ないとは……」
「裁判にならないケースが多いんですよ」と竹田は答えた。
薬事法違反の刑事罰には無許可製造、無許可販売・販売目的貯蔵、承認前の医薬品の広告の禁止、両罰規定などがあるという。これらのいずれかに問われた場合、最大で3年以下の懲役もしくは最高額で300万円以下の罰金または併科になる。ここで問題なのは罰金刑だと竹田はいった。
「故意あるいは過失を問わず、薬事法違反に問われた多くのケースでは、裁判で闘うよりも最高額で300万円の罰金刑に服してしまうんですよ。もし罰金ではなく、懲役刑になれば裁判で争うこともあるんでしょうけどね。それと、特定商取引法違反の場合であれば、業務命令が下されてしまいますが、薬事法にはそれがない」
たしかに竹田のいうとおりだった。薬事法違反の捜査令状を示した磯辺はこういったはずだ。どうぞ仕事を続けてください、と。
個人にとっての300万円は大金である。しかし企業にとっての300万円は少ない金額ではないが、業務ができなくなることに比べたらまだマシだ。
「私の場合も罰金を支払えば済むことなんですか」
カネでケリがつくのであれば──との思いが吉田の脳裏をよぎった。しかし、それでいいのだろうか? もっと大切ななにかを忘れている。
「吉田さん」といった竹田の目は厳しかった。「何度もいいますが、いまはあなたも私もなにもわからない五里霧中にいるんです。結論を急ぐよりも、きちんと現状を把握し、認識しておくことがいまの私たちにとって大事なことなんじゃないですか」
明確ではなかったが、明らかに非難の色を浮かべた竹田の視線に吉田は気恥ずかしさをおぼえた。わずか2日間のあいだにおこった激変で自分を見失っていることを認めざるを得なかった。改めてやるべきことを確かめることが、これから先へつながる道標になるのだ。「しかし」といいそうになる自分を抑えて彼は前を向いた。
「先生、どこからお話しすればいいんでしょうか?」
「そうですね──」といってから、竹田が捜査の手順や押収資料の内容などについて説明を求めた。それに対して答える吉田の言葉を分厚いシステム手帳にメモをしてはうなずき、不明な部分があると補足を求めてきた。
「気になるのは……」といって竹田が冷たくなったコーヒーに口をつけた。「この前の電話でもいいましたが、やはりハピネスシリーズの2アイテムですね。まず間違いなく、この2つが今回の捜査対象だったと思われます。あれからなにか気づいたことがありませんか? パンフレットやチラシ、あるいは広告についての文言とかで」
それは吉田もずっと思いめぐらしていたことだった。
「うちは通販がメインですから、表現については常に注意してきたつもりです。でも──」グレー領域の表現があったことは認めざるを得なかった。たとえば、「キレイ」や「軽い」の形容詞の使い方、薬効を暗示する動詞の排除など基本事項は守りながらもどうしても半歩踏み込まざるを得ない部分もなくはなかった。かといって世間一般に宣伝されている広告やチラシの類いと比べて逸脱することはなく、逆にそれらよりも法の遵守についてはしっかりしていると自負していたくらいだった。それなのにという思いが彼を戸惑わせていた。
「もしかしたら、最近のことではなく、ずっと以前のことかもしれませんね」
「以前のこと?」
「はい。1年前とか2年前とか、しばらく前に出したパンフレットということも考えられます」
吉田は考え込んだ。気になることがないでもなかった。ちょうど1年ほど前のこと、〈ハピネス〉のリピーター向けにキャンペーン企画を組んだときのこと、愛用者の声を掲載した小冊子を作成したことがあった。体験談は「危険」とは認識していても、よくテレビショッピングなんかであるような、あくまでも「個人の感想」レベルの内容であったが、果たして、あれがまずかったのだろうか。
そのことを告げた吉田に竹田の反応は鈍かった。
「可能性としてはありますね。しかし、特定の会員に向けてのものでしょう? そうなると、どこかに流れて、だれかが密告したということもあり得ますね。あくまでも可能性の問題ですが」といって竹田は口をつぐんだ。
沈黙のあいだ吉田もその可能性を考えていた。密告? チクリ? いったいだれがなんの目的で?
「思い当たりません」と吉田は答えたが、なにか見落としている気がした。
「堂々回りになってしまいますね。とにかくいまは待つことしかできません」といった竹田はいつもの気さくな顧問弁護士に戻っていた。「気休めになるかどうかですが、捜査を受けたからといって必ずしも立件されるとはかぎりません。このままなにもないかもしれません」
電話で話したときと同じ楽観論を竹田は繰り返した。もつれた糸はほぐれぬままに残されている。その糸は吉田の足元を搦めとったまま、身動きできなくしているのだ。
喫茶店を出ると竹田は「次の裁判がある」といって足早に去っていった。その後ろ姿を見送りながら吉田は深々と頭を垂れた。