見えない真実 ~薬事法違反に問われた経営者の180日
逮捕状
2週間なんて、あっという間だった。再建に向けてやることは山ほどあった。日付も曜日も、季節のうつろいすらわからないほど日々の仕事に吉田は没頭していた。それにまた、新規事業として立ち上げたOEM供給による代理店卸の契約が目前に迫っていた。提供商品の検品、納品、提供資料の作成と山積する業務を彼と鈴木のふたりでほとんど片づけなければならない状況にあった。主要業務である通販事業は他の従業員にカバーしてもらうとしても、新しい取引先との折衝はどうしても窓口である吉田と鈴木が対処していくしかない。竹田との面談以降の2週間、寝食を忘れて再起を賭けた新規事業に取り組んでいた。
そんな夫に対して妻の良子の協力はありがたいものだった。幸子を小学校へ送り出すと事務所へやってきて発送を手伝ったり、来客があれば吉田に代わって応対したりと、献身的な協力を惜しまなかった。
従業員たちそして家族の協力がなければ再建はできない。しかしハピネスには、売り上げは従前ほどではないにしろ、再建というよりも新興ともいうべき活気が生まれ、あふれつつあった。だからこそ吉田は目前にある新しい事業にも集中することができたし、その成果が実るのもそう遠くはないような気がしていた。
そしてあっという間に2週間が過ぎ、それから3日経過するまで吉田も鈴木も気づかなかった。
「そういえば」と切り出したのは、鈴木だった。明日に控えた新規代理店との契約書類を整理していた彼が手を休めて続けた。「もう3カ月過ぎてるんじゃないですか?」
「そういえば」と同じ言葉を繰り返して吉田は卓上カレンダーに目をやった。「とっくに過ぎてるな」
「気がつきませんでしたね。なんにもありませんでしたね。なんだか気が抜けちゃいますね」
「バカなこというな。なにかあったらまた振り出しじゃないか。明日は代理店第一号との契約日なんだから、不吉なこというなよ」とたしなめながら、それでも吉田は内心、なんにせよなにごもとなかったことに安堵した。
「これでもう大丈夫なんですね」
確認するように鈴木が笑みを浮かべて問いかけてきた。わからないという言葉を吉田は使いたくなかった。あれはもう過去の出来事なのだと彼は自分にいい聞かせ、「ああ、竹田先生もああいってたんだから、大丈夫だろう」と鈴木が欲している回答を口にした。
言葉を口にすることでそれは現実のものとなる。大丈夫だとかいうよりも、そもそもが薬事法違反などしていなかったのだ。彼のなかで薬事法に抵触するような文言を介してひとに商品を売りつけようなどと思ったことはこれまで一度もない。神に誓ってもいい。健康食品はひとを幸せにするためのアイテムなのだ。だからハピネスという社名をつけたのだ。それなのに嘘をいったり、法律を破ったりするはずがないじゃないか。
吉田は原点に立ち返った。強制捜査の日以来、もんもんとしていたもの。意識するしないにかかわらず、おれはまちがったことをしていたのだろうか? その疑念に対する答えが3カ月過ぎたいま、ようやく出た。やっぱりおれは正しかった、と。
「明日は11時のアポだから、朝10時にここを出よう。遅刻するんじゃないぞ」
「わかってます。明日はばっちり決めて、祝杯をあげましょうよ」
「それもいいな。契約が決まったら、他のみんなも誘って、うまいもんでも食いにいくとするか」
「いいですね」
鈴木が作成した販売委託契約書の甲欄に吉田は社判と代表印を捺した。取引先が乙の欄に押印すれば、契約は成立する。そのときまであと12時間もなかった。
静かな朝だった。なんの変哲もない朝。しかし吉田にとっては再起をかけた朝だった。
午前8時、事務所にはすでに鈴木が出社していた。おはよう、と声をかけて吉田は席に座った。
「もう用意できてます。念のため契約内容もチェックしておきました」
差し出された契約書類を受け取り、吉田はひとつうなずいた。鈴木もきょうが新しい門出を迎える重要な日であることを承知している。心強いパートナーだと彼は思った。
「10時にここを出よう」
昨夜と同じことを口にして吉田は契約書に目を通した。念には念をいれて。
午前8時10分。事務の女性従業員が「おはようございます」といって入ってきた。「鈴木さん、今朝は早いのね」といった彼女に鈴木が「きょうは大事な日だからね」と答えている。
女性従業員が煎れてくれたお茶をすすり、吉田はなにげなく壁時計に目をやった。
午前8時15分。あと5分もすればパート従業員が出社してくる頃だろうか。普遍的な日常。それが1秒を刻む秒針の動きに集約されている。
入り口のドアを軽く叩く音がした。
コンコン、と。
壁時計を眺めていた吉田は気づかなかった。長針がかちりと動いた。
午前8時16分──ドアを開けた女性従業員の向こうに黒い人影があった。いつかどこかで見たことのある影、見覚えのある光景。時間が止まったのかと吉田は錯覚した。水中にいるような感覚、浮遊感、夢のなかの出来事、目に映るすべてのもの、耳に入ってくる途切れ途切れの音のすべてが緩慢すぎて、彼を現実から遠ざけた。
午前8時17分にはまだなっていない。秒針が「8」を過ぎたばかりだった。あと15秒、10秒──事務所の空気がうねったように思えた。なにか重々しい威圧的な空気が事務所になだれ込んできた。5つの黒い影、それが元凶だった。
七三にていねいに撫で分けたヘアスタイル、会計士の先生じゃないはずだし……。それを明らかにしたのは黒い影の先頭に立つ見覚えのある男、忘れようにも忘れられない顔。「F署の磯辺です」事務的な静かな口調は変わらなかった。
いったいなんの用だろう? 吉田は目の前の男よりも、壁時計が気になって仕方がなかった。
午前8時17分18秒。あと1時間20分したらここを出なければならない。そのことを彼は慇懃無礼な男に告げたかった。
「薬事法違反で裁判所から逮捕状が出ています。これが逮捕状です。ご確認ください」
濃紺のスーツの内ポケットから取り出した一枚の紙切れを広げて磯辺は彼の目の前にかざした。
「……ど、ど、どういう──」引きつった喉は言葉を拒んだ。
「ご同行願います」
呪縛から解き放たれたかのように女性従業員の小さな悲鳴が遠くから聞こえてきた。いつのまにか吉田は5つの影に取り囲まれていた。その人垣の向こうに顔を強張らせた鈴木と口元に手を当て顔をくしゃくしゃにしている女性従業員の姿があった。
磯辺が合図すると吉田の両脇にいた男たち──腕を取られたときその力強さに彼は震えた──に抱きかかえられるように彼は立ち上がった。離してくれ。吉田は訴えようとしたが言葉が出てこなかった。怒りも悲しみもなにもなかった。虚無だけが彼の目に映っていた。それと事務所の壁時計だけ。
午前8時18分5秒。対峙した磯辺がなにかいっている。ご家族へ連絡することはできます……すぐに所轄へご同行……弁護士が必要ならば……。午前8時20分32秒。両脇を抱えられるようにして吉田は事務所を出た。
「社長ーッ!」悲痛な鈴木の声に彼は応えることができなかった。
事務所前には2台のパトカーが赤色灯をつけたまま停まっていた。それに気づいた近隣のひとたちが集まってきていた。刑事に抱きかかえられた吉田はパトカーのそばに立った。だれを迎えに来たのかは一目瞭然だった。磯辺が目の前に立ち、腕時計に目をやった。
「吉田明男、午前8時19分、薬事法違反容疑で逮捕します」
右側にいた若い刑事が手錠を取り出した。カチリ──冷たい金属音が両の手首を絡めとった。
野次馬たちの小さなざわめき、テレビの刑事ものでよくある場面。それを目の当たりにした興奮が伝わってきた。後部座席に押し込まれるように彼はパトカーに乗り込んだ。助手席に座った磯辺が合図するとパトカーがすぐに動き出した。通りに出たパトカーはけたたましいサイレンの音で朝の渋滞を蹴散らし走り続けた