見えない真実 ~薬事法違反に問われた経営者の180日
縛られた自由
絶望とはどのようなものであるのかを吉田は生まれて初めて知った。小学3年生のときに算数のテストで30点しか取れずに母親にひどく叱られたこと、中学1年生のときの破れた初恋、バイクの免許を取りたかったけれども親に反対されてあきらめた高校2年の夏、大学時代に受けた恋人の裏切り、27歳のときのミスが生んだ850万円の損失、健康診断の再検査でガンを宣告されたのは38歳のときだった。幸いにも精密検査でガンでないことが判明したものの、いずれのときにも感じたのが絶望だった。しかし過去の絶望は本当の絶望ではなかった。強制捜査の令状を突きつけられたとき、あるいはパトカーのなかで手錠をかけられたとき、そのときに思い知った絶望よりも、新聞の見出しは「絶望」の本当の意味を教えてくれた。
目の前が真っ暗になるというが、そんなことはない。吉田は笑い出したくなった。視界は良好過ぎるくらい鮮やかだ。〈薬事法違反で健康食品業者逮捕〉の見出しだけでじゃない。普段ならこんなに離れていれば見えるはずないのに、〈──F署生活安全課は薬事法違反の疑いで健康食品販売会社代表の吉田明男容疑者を逮捕した〉の一文まではっきりと読み取ることができた。だから目の前が暗くなることなどない。
それよりも素っ裸で新宿や渋谷の街中を歩いている感覚? かなり近いが、いやいや、そんなものじゃない。まだ実体があるだけいいじゃないか。新聞に自分の名前が「容疑者」の尊称付きで掲載されるということは、「あなたをこの世界から抹消しますよ」との宣告に他ならなかった。
体の芯が小刻みに振動していた。震えはやがて全身へと波及し、一つひとつの細胞がアポトーシスを起こしていく。崩壊速度が光速に達すればきっと無に帰すのだろう。彼はそのときを待った。しかしそれは訪れることなく、かわりに膀胱が弛んできた。
彼はまた笑いたくなった。このままおもらししたら、磯辺はどんな顔をするだろうか?
「トイレに行かせてください」
磯辺の合図で背後霊のようなにいつも張りついている若い刑事がうなずいた。
芳香剤のにおいに吐き気をおぼえて、吉田は便器に突っ伏し嘔吐した。そして泣かずにはいられなかった。
大の男が臭気のこもった個室で声をあげて泣きじゃくっている。それがいまの俺なんだ。
「もう終わりだ……」
吐瀉物といっしょに彼はつぶやきを便器に落とした。
吉田はもうなにも考えるつもりはなかった。磯辺たちは彼に君臨する絶対君主であった。彼らの言葉はすべて正当なものであり、神の言葉に等しい価値をもっているのだ。
「このパンフレットには病気が治るようなことが書いてあるけど、そうなんだね?」
「……はい、そうです」
「薬事法に違反していると思っていたね」
「……はい、してました」
「違反したことを認めますね?」
「……はい、認めます」
こんなに楽なことはなかった。「はい」といい続けるだけで磯辺も若い刑事も驚くほどやさしくなった。彼らは慈愛に満ちた神なのだ。まもなく彼らは俺を楽園に連れていき、解き放ってくれるにちがいない。そこには良子と幸子が待っているはずだ。そのための最後の審判がいまこのときであり、「はい」といい続けることが自由へのキーワードになるのだ。
その夜、吉田はひさしぶりに熟睡した。夢さえ見ることのない泥のような眠りに埋没した。無に帰すことの心地よさを彼は無意識のうちに感じていた。抗うことの愚かしさ、主張することの虚しさを彼は泥の眠りに封じ込めた。
やはり磯辺たちはやさしかった。翌日になると彼らは吉田を解き放つための準備に入った。
初めて乗る護送車は乗り心地のいいものではなかった。けれどもこの車の行き先は地元の検察庁であることを彼は磯辺に聞いていた。そこでも素直であれば、まもなく解放されることになるのだ。
竹田の言葉が思い浮ぶ。
「薬事法に問われた多くのケースでは、罰金刑に服しています。だから判例が少ないんですよ」
罰金の最高額は300万円だという。それが自由の対価となるのだろう。これまでの蓄財から賄えない金額ではない。
灰色の建物が彼を迎え入れてくれた。
初老の検察官が彼を訊問する。
「この案件について、あなたは薬事法に違反したことを認めますね」
吉田は答えた。
「はい、認めます」
自由へと一歩近づき、もうひとりの吉田明男が消滅した。
名も知らぬ初老の検察官はやはりテレビドラマのそれとは違っていた。勝手なイメージなのだろうか、検察官というと犯罪者に対して毅然と対処し、冷徹なほどのまなざしで被疑者を射竦めるものとばかり思っていた。そう、俳優でいえば……ほら、ずっと昔に外科医の役で有名になった……ああ、名前が浮ばない。
「はい、そうです」と吉田は答えた。その答えにあの俳優とは似てもにつかぬ穏やかな初老の検察官は、一度、二度とうなずき返してくれた。
吉田は再び俳優の名前を思い出そうとした。そのあいだにも検察官は事実確認を淡々と進めていく。
〈ハピネス〉シリーズのチラシ原案を作ったのはあなたですね、あなたが募った会員に配付しましたね、一回あたりの売上高はこれくらいでしたね──そのたびに吉田は答える。
「はい、私です」「はい、そうです」「はい、そのとおりです」
オウムのように同じ言葉を繰り返すだけでいい。吉田はあの外科医を検察官に置き換えて想像する。そして訊問されている自分、犯人役の俳優を記憶のなかで検索する。
犯人役? うなだれた肩、両脚のあいだに手を入れて前屈みの姿勢で検察官に向かい合って座っている情けない男。その罪はたとえようもなく大きく、ひとびとの健康を損なわせてしまうことになってしまったのだ。どうして? 薬事法違反のチラシを配付したからではない。ほかならぬ〈ハピネス〉シリーズの健康食品を提供できなくなってしまったからだ。
「このチラシが薬事法違反であることを認識していましたね」
違う! 吉田は顔をあげて検察官の顔を見据えた。それを受けた初老の検察官の表情が引き締まった。
「反論するつもりですか?」そう検察官の顔は語っていた。「どうぞしてください、事実を明らかにしましょう」とも。
「はい、認識していました」
忘れかけた屈辱と恥辱に吉田は目を伏せた。
そうだ、これは敷かれたレールだったのだ。はじめから終着駅は決まっていたんだ。脇道に逸れることの赦されないレールの上を、あの強制捜査の日からずっと走り続けていたのだ。そして彼は意識から外科医を追い出し、妻と子供の顔を思い浮かべた。
事情聴取が終わると再び護送車で彼は留置場へと送り届けられた。
固いベッドに横たわり、シミの浮き出た天井を眺めた。
もうすぐ帰るよ。なんの根拠もなかったが吉田はそう思い、信じ、自分を慰めた。いつここから出られるのかだれも教えてくれない。だれもなにも教えてくれない。どうして自分がここにいることになったのか、その理由の一端すら彼は知らされていないのだから。ただ「薬事法に違反した」という一点のみだけが明らかになっている真実だった。
翌朝、彼を迎えに来た磯辺がいった。
「吉田さん、きょうは荷物もいっしょにもっていってください」
それだけだった。
護送車に乗り込み、に二度目の地検に彼は向かった。
昨日と同じ初老の検察官が彼を待っていた。やはり淡々とした事務的な作業。略式起訴で50万円の罰金刑の確定を告げて検察官は退室した。それだけだった。
同席していた検察事務官が彼を別の一室に案内した。ドアを開けるとそこには妻の良子が待っていた。
「あなた!」と胸に飛び込んできた妻の顔には明らかに心労の色が浮んでいた。
「すまなかったな」といって吉田は彼女を強く抱き締めた。
「昨日、連絡があったの。明日……こうなるって」
「……そうか」
言葉は続かなかった。後ろに控えていた検察事務官がこれからのことを教えてくれた。彼だけがよき理解者であり、協力者であるような気がした。単に任務を遂行しているだけなのだが。
罰金50万円を手配し終わり、地検を出たのはそれでも夕方近くだった。
法に縛られていない道路に一歩踏み出したとき、吉田はめまいをおぼえた。良子が慌てて彼の腕をとって支えた。
ひとつ、ふたつと深呼吸して彼は息を整えた。
「ありがとう……もう大丈夫だよ」
こくりとうなずく彼女の目に安堵が浮んだ。
振り仰ぐと地検の建物がいまにものしかかってきそうだった。
もう終わったんだよな──彼は胸のうちでつぶやいた。そう、なにもかも終わってしまったんだと彼は痛感した。
駅までの道のり、ふたりは無言だった。おそらく、終わってしまったことを良子も感じ取っているのかもしれなかった。なにも真実が見えないまま、あるいは真実を明らかにする機会さえもないまま、おれはようやく終着駅にたどり着いたのだ。
踏み切りの遮断機が遠くに見えてきた。明滅するランプがとてもきれいだった。見慣れない電車が轟音を響かせながら通り過ぎていった。遮断機が上がると人波となって通行人が踏み切りを渡っていく。そしてすぐに警報が鳴り、ランプが明滅した。夕方の帰宅ラッシュを迎えて町は活気にあふれている。喧噪に混じって遠くから近づく電車の音が聞こえてきた。
踏み切りに一歩近づくたび、ふくらはぎが緊張していく。遮断機が完全に下りて制止した。通行人が立ち止まり、電車が通過するのを待っている。
吉田は歩き続けた。爆発的な力が両足に漲ってきた。
走り出すときだ──。
「幸子が待ってるわ、早く帰りましょう」小さく笑みをこぼした良子の顔がまぶしかった。
「そうだな、早く帰ろう」
筋肉が沈黙し、弛緩した。
ふたりの前を電車が行き過ぎた。