見えない真実 ~薬事法違反に問われた経営者の180日

揺らぎ

「おそらく」といった吉田はできるだけ平静を装った。強制捜査から1カ月過ぎたある日のこと、応接室で鈴木を前に帳簿を捲りながら彼は続けた。「マイナス30%程度に抑えられそうだ。不幸中の幸いというかなんというか、締め日をまたいだことで前月度は最小限のマイナスでおさまりそうだ」
  企業にとってマイナス30%もの売上減は痛くないわけはなかった。しかも辞めた従業員の退職金などの問題もあり、吉田個人の預貯金を投入しなければどうしようもない状況であった。しかし光明はある。メーカーの三島化学や内藤の協力もあって思いのほか早く事業が再開できたことで、顧客離れを食い止めることができそうだった。それになによりも新たに投入した〈ハピネス αヌーボー〉の出足が良かった。発売から十日も経っていないというのに、この調子で行けば来週にも次のロットを発注しなければならない勢いだった。
「決して安穏としてられる状況じゃないが、なんとか3カ月後までにはこの勢いを生かさなければな」
  しかし、「そうですね」と相づちを打った鈴木の顔が浮かないのも無理はないと吉田は思った。再建への道を歩み出したときに脳裏をよぎった「気になるその後」が来たのだ。彼は残った従業員の給料を当面のあいだ10%削減することを打ち出したばかりだった。できることなら減給などしたくはない。けれども売り上げの大幅な減少という事実があっては、経営者としてリストラクチャリングに取り組まなければならなかった。その一環としての減給であったが、これからさらにつらい場面に立ち向かわなければならないことも鈴木はわきまえていた。
「それで……だれを」といって鈴木は吉田を見た。
「パートの三人と──」従業員ふたりの名前を彼はあげた。
「5人ですか」といった鈴木の声音に非難めいたものはなかった。経営者としての吉田の苦悩を彼は理解しているようだった。
「これから、残った従業員からも退職希望が出るかもしれないが、それはそれで仕方ない。とにかく立て直すまではみんなの協力が不可欠なんだ」
  当面の危機を乗り切ること。そのためにはドラスティックにならなければならない。目顔で告げた吉田に鈴木は力強くうなずき返した。
「おれから説明する。ひとりずつ呼んでくれないか」
  リストラの対象となったパートと従業員一人ひとりに吉田は誠意をつくして話をした。あんなことがあったにもかかわらずに戻ってきてくれた人間たちだった。にもかかわらず、解雇を告げなければならないことに彼は無力感をおぼえた。彼らは生活の糧のために仕方なく戻ってきたのかもしれない。どこも不景気で仕事口がなかったからかもしれないし、あるいは年齢の問題などで就職先が見つからなかったからかもしれない。それでも彼らはハピネスを頼り、吉田を頼って戻ってきたのだ。だからこそ彼は彼なりに、精一杯のことをしてやりたかった。
  パートのひとりは五十代なかばの年配の女性だった。3人の孫がいるという彼女は淋し気な笑みを浮かべて吉田の言葉に深々と頭をたれた。
「そんなあ、ただのパートなのに退職金なんて、ありがとうございます」
「退職金といえるほどの額じゃありませんが、これまでがんばってもらった気持ちです。お孫さんになにか買ってあげてください」
「はい、ありがとうございます。こちらは家庭的な職場で働きやすかったんですが……残念です。お世話になりました」
  もう一度頭をたれた女性の、白髪まじりの頭から吉田は目を反らすしかなかった。

 感傷に浸る余裕などなかった。急ブレーキを踏まざるを得なかったハピネスを再建させるには、ドラスティックな決断を迫られることがあるのも当然のことであった。メーカーや広告代理店や印刷会社などの取引先、それに弁護士の竹田や会計士のブレーンたちとの打ち合わせを綿密におこないながら、彼は多忙な日常にか弱い気持ちの部分を埋没させていった。
  それは強制捜査の日を忘れさせてくれたし、絶えず意識の片隅にわだかまっている不透明な膜に包まれたトラウマを癒してくれる効果もあった。
  このたびの一件を機に吉田はエンドユーザーを対象にした通信販売のほか、OEM供給による代理店卸業務を新たに立ち上げる構想をもっていた。その契約書類等の関係資料について竹田と打ち合わせているときのことだった。
「あのあと、音沙汰なしですか?」
  打ち合わせが一段落したのを機に竹田が切り出した言葉はそれだけで十分だった。
「ええ、まったくですね。それがかえって無気味というか、なんというか」
  苦笑いを浮かべて吉田は答えた。
「実は先日のこと、別件ですがある警察関係者と話をする機会があったんですよ。そのひとは他県の県警でかなり上の人物なんですが、生活事犯に詳しい方でね」
「はあ……」
「そのひとがいうには、強制捜査から2カ月、あっても3カ月経ってもなにもなければ、おそらくもう終わりだよ、というんですよ。たしか、まもなく3カ月になるんじゃなかったですか?」
  指折り数えるまでもなく、あと2週間でちょうど3カ月になることを吉田は告げた。
「それなら、時効まであと2週間ですか」といって笑えないジョークで笑う竹田に愛想笑いを返して彼は訊ねた。
「それにはなにか根拠があるんですか?」
「さあ、そのあたりまで深くは教えてもらえなかったんですが、押収資料を精査するのにやはりそれくらいの期間がかかるようなことを話していましたね。なにかあったらウラを取らなければならないでしょうから」
  それに、と吉田は胸中で付け加えた。薬事法違反などどこでもやってることだから、うちだけにかかずりあっているヒマはないんだろう、と。自分自身に対する皮肉に嫌な気持ちになって彼は話題を変えた。
  竹田との打ち合わせが終わり事務所に戻ったのは夕方遅くになっていた。
  事務所には鈴木のほかに2、3人の従業員が当日分の発送手続きをおこなっているところだった。
  応接室に鈴木を呼び入れて吉田は竹田との打ち合わせの内容を伝えた。
「契約書面については三カ所ほど修正が必要だが、ほとんど問題ないそうだ。あとは新規の開拓をどう進めていくかだな」
「そっちの件は任せてください。今週中に3社のアポが入っていますので、なんとか決めてきますから」
「よろしく頼むよ。それとな……」いうかいうまいか迷ってから、吉田は続けた。「先生がいうには、捜査から3カ月なにもなければ、終わりらしいということなんだ」
  鈴木の顔がぱっと明るくなった。
「あと2週間の辛抱らしい」
  辛抱というのもおかしいが、吉田はそう表現することで事態の終息を自らが確信したかった。
「それじゃあ、なおさらがんばらなきゃいけないですね」という鈴木に力強くうなずきながら、2週間なんてあっという間だろうと漠然と思い浮べた