見えない真実 ~薬事法違反に問われた経営者の180日
誠 意
明けない夜はないように、来ない明日はない。けれども、きょうという日が明るい明日であるはずがないことを吉田は知っている。カーテン越しに射し込む白々とした朝の光、一睡もできずに悶々と過ごした夜の終わり、澱んだ空気に漂う嗅ぎ慣れないにおいは闖入者たちの残り香か。荒らされた書斎は手つかずのまま、昨日まであったパソコンの跡も机の上にくっきりと残っている。〈ハピネス〉ブランドの商品企画書や新商品の企画書をしまってあった机脇のキャビネットも開けっ放しのままで、医学書や健康関連書籍を納めていた書棚もすかすかになり、仕事とは無関係と判断された単行本の類いだけが横倒しに積み上げてある。永遠に明日は続くけれども、昨日と同じ明日が来ないこともまた真実だった。
昨夜遅く帰宅した彼を出迎えた良子は不安を隠そうとはしなかったが、それでもよき理解者であった。「おれを信じてくれ」の言葉に大きくうなずき、普段どおりに接してくれたのがせめてもの救いだった。家族の幸福。守るべきものはなによりもそれであった。
キッチンから聞こえてくる物音は良子が朝食の支度をしているのだろう。まもなく朝寝坊の幸子を起こしに子供部屋へ向かう足音が聞こえてくるはずだ。いつもと変わらぬ朝。そういえば昨日の朝食を食べてからなにも口にしていない。日常をぶち壊すほど出来事は人間が生来もっている欲求すらも失わせてしまう力を内包しているらしい。わずか24時間前には想像だにできなかったこと。それが現実となって襲いかかっているという事実。目には見えない牢獄のなかで彼はさまよっていた。
午前7時を待って吉田は書斎を出た。キッチンにいた良子が振り返った。朝のあいさつを交わしたあと、「早めに出るよ」といった吉田に軽くうなずいた良子は努めて明るく装おうとしていた。そのことが彼にとってせめてもの救いだった。
「幸子を頼む」といってマンションを出た吉田は携帯電話で鈴木に連絡をとった。彼も鬱々とした夜を過ごしたのだろう、ワンコールも鳴らないうちに鈴木が出た。顧問弁護士の竹田との会話をかいつまんで説明してから、他の従業員に改めて自宅待機しているよう連絡してもらうことを鈴木に依頼した。その後、事務所で落ち合うことを確認して吉田は電話を切った。
いつもと同じラッシュアワー時の電車に揺られても違和感があるのはやはり見えない枷に縛られているためか。無力感が生気を奪おうとしているかのようだ。
これからなにをすればいいのだろう、それよりもなによりも、これからなにが起こるのだろう? 鈴木を出社させることにしたのも、これから起こる様々な不測の事態に自分ひとりだけでは対処できないかもしれないという不安があったからだ。
閑散とした事務所は昨夜と変わっていなかった。失われてしまった活気はその残滓さえも見当たらない。なにをするでもなく自分の席に腰を下ろした吉田は壁掛け時計に目をやった。
午前8時。そのときを待っていたかのように、卓上の電話が鳴った。
「もしもし、内藤だけど吉田社長いる?」
慌てた男の声は〈ハピネス〉商品のパンフレットやパッケージを制作している印刷会社の社長だった。
「ああ、内藤さん。吉田です。おはようございます」
「おはようじゃないよ。いったいどういうことなの? さっき警察がうちに来たんだけど」
全身から冷や汗が噴き出してきた。余波は確実に広がっているのだ。
「いや、実は──」大きく深呼吸してから吉田は続けた。
取引先の反応はそれぞれだった。朝いちばんでかかってきた印刷会社社長の内藤は、事情を説明すると驚きとともに同情ともいえる言葉をかけてくれた。
「健康食品とかやってるところは規制が厳しくなってるって聞いたことあるけど、まさか吉田さんとこがなあ……でも、いったいどうしてなんだい」
「それがさっぱりわからないんです」
「お宅は真面目にやってるのになあ」という内藤は、吉田が独立したときからの付き合いだった。小さな印刷会社の経営者であるが、面倒見がよく、業績が思うように伸びなかった時期には支払いを伸ばしてくれるなど、吉田にとって恩人ともいえる存在であった。
「とにかく、こっちに来てる警察が帰ったらまた連絡するよ」
「ありがとうございます。こちらも落ち着きしだい、あらためて事情を説明にあがりますので」
しかし内藤のように事情を察してくれるところもあれば、迷惑をこうむっていると憤慨して電話してくるところもある。あるいは「警察ざた」になったことで、〈ハピネス〉は終わりだと思ったのだろう、事情を説明する余地もなく売り掛けの回収について相談したいと切り出してくるところもあった。鈴木が出社してくるまで数件の電話を受けた吉田はそれだけで疲労困憊だった。しかしどのような内容の電話であれ、いまは誠意をもって応えるしかない。そしてまた、かかってくる電話は〈ハピネス〉の外堀を埋めるように警察が動いていることを思い知らせ、それは目の前でおこなわれた強制捜査よりもなお強い恐怖心を彼に植え付けた。
「警察が取引先をまわってるらしい」
鈴木はなにもいわずに卓上の電話に目を落とした。
「とにかくこっちからは動けない。電話のあった取引先から事情説明にまわるしかないだろう」
「わかりました。しかし、お客さまから注文があったらどうしましょう」
「取引先はおれひとりでまわるから、きみは事務所に残って対応してくれ。お客さまからの注文については、しばらく休業するとしかいえないだろう。そのあたりはうまく処理してくれないか」
開店休業だな、と吉田は内心思ったがそれを口にはしなかった。
「しかし、警察がうちの取引先をまわってるとなると……」
明確な言葉を継ぐことなく鈴木は黙りこくった。
企業はそれ単体では存続し得ない。規模の大小にかかわらず、社会経済に組み込まれた企業は相互関係によって成り立っている。〈ハピネス〉だってもちろんその例外ではない。メーカーで製品を作ってもらい、それを顧客に販売する。それだけではない。商品となった製品のパンフレットを作り、広告代理店を通して広告を出稿し、宅配便を使って顧客へ商品を送り届ける。あるいは事務用品の通販会社からコピー用紙を買い求めたり、パソコンのメンテナンスを依頼したり、残業した従業員のために宅配ピザをとったりする。そこには「円」という貨幣が経済活動を象徴する単位として流通しているが、そればかりではなく、そこには信用あるいは信頼というなにものにも変えがたいものが存在してこそ成立するものだ。
〈ハピネス〉はそれを失おうとしている。そしておれも──急に足元が頼りなくなり、下を覗き込むとぽっかりと真っ暗な深淵がそこに広がっていた。
「とにかく、いまはできることだけやろう。取引先にも、お客さまにも、誠意をもってあたるしか、おれたちにできることはない」
現実をたしかめるように吉田は前を見据えた。