見えない真実 ~薬事法違反に問われた経営者の180日

売ってはいけない商品

「仕事を続けてといわれたって、この状態でどうすればいいんです」荒らされた事務所を示しながら吉田は訴えた。しかし捜査主任である磯辺の態度は徹頭徹尾、変わることはなかった。
  吉田の訴えを無視した捜査主任が部下に耳打ちしてパンフレットをもってこさせた。手にしたパンフレットには〈ハピネス サプリシリーズ〉の商品ラインナップと通販による購入申込み方法が記載されていた。創業時の2アイテムからスタートして、現在では8品目までに増えた吉田の分身ともいえる商品がそこには並んでいた。
  薬事法違反の理由がそこにあるのだろうか? 具体的な違反理由を耳にすることになる? そのおそれに吉田は緊張した。しかしパンフレットを指し示した磯辺の言葉は意外なものだった。
「この商品……〈ハピネスα〉と〈ハピネスβ〉ですか。このふたつについては、注意してください」
「注意……?」
「違反しなければ新しいお客さんに売ってもかまいませんが、これまで購入したひとに売ることはできません」
「どこがどう違反しているんですおっしゃっている意味がよくわかりません」
「そういうことです」磯辺の対応はあくまでも事務的だった。しかしそんなことよりも〈ハピネスα〉と〈ハピネスβ〉が販売できないことが吉田の困惑を煽った。
〈ハピネスα〉と〈ハピネスβ〉が創業当初からの2アイテムで、〈ハピネス サプリシリーズ〉の人気商品だった。現在の〈ハピネス〉があるのもこの2アイテムのおかげといっても過言ではなく、しかも顧客のほとんどがこの商品の愛用者でもあった。既存客に〈ハピネスα〉と〈ハピネスβ〉を売ってはならないということは、それはつまり「仕事をするな」という意味に等しい。
「これはうちの人気商品なんですよ。いまいるお客さんのほとんどがこの商品を愛用してくれているんです。それを売ってはダメだなんて。どうしてこれを売ってはいけないんですか?」
「それとですね、お宅と取り引きのある会社さん。えーと……仕入れ先や印刷会社、広告代理店、銀行さんですか。そういった関係先に連絡することはやめてください。証拠隠滅とみなされますから」
「そんなこといわれたって……」言葉を継ぐことができず、吉田は黙り込むしかなかった。
  捜査官たちの引き際は見事のひとことだった。押収資料を詰め込んだ黒いワゴンに乗り込み、潮が引くように捜査官たちは立ち去った。最後に残った磯辺が事務所を出るとき、なにか見落としているものがないかをたしかめるように室内を見渡した。その一瞬、無表情で通した磯辺のおもてが鋭く尖った。紛れもないベテラン捜査官の鋭い眼光が〈ハピネス〉と吉田を見据えていた。恐怖に近い感情が吉田を襲った。足が竦んですぐには動けなかった。磯辺が去ったあと、そんな自分を鼓舞するかのように吉田は大声で怒鳴った。
「こんな状況でどうやって仕事をしろっていうんだ!」
「社長」と営業部長の鈴木が駆け寄ってきた。
「いや、すまん。鈴木くん、応接で話そうか。それとみんなは事務所の片づけを頼む」大きく深呼吸してから吉田は事務所を見回し、怯えた表情を隠せない社員たちに見せかけの笑顔で指示した。
「社長、これはいったい」応接に入るなり鈴木がいった。
「なにがなんだかさっぱりわからん。どうしてうちが薬事法違反になるんだ。それにこれまでのお客さんに〈ハピネスα〉と〈ハピネスβ〉を売ってはダメだという。それなのに新規はかまわないというんだ」
「どういうことでしょう?」
  吉田は首を振って応えた。

 応接室での沈黙が続いた。他の社員たちが事務所を片づけている音がドア越しに聞こえてくる。押し黙った鈴木の顔が青ざめていた。おそらく、自分も同じような顔色なんだろうと吉田は思った。
「とにかく、片づけが終わったらきょうはみんな帰してくれ。いまの状況じゃあ、仕事などできないからな」
  愚痴にならないよう努めて明るく吉田は告げたが、鈴木のおもてから不安は消えなかった。
「明日はどうしましょう」
「とりあえず自宅待機ということにしよう。なんといっても、〈ハピネスα〉と〈ハピネスβ〉はうちの命綱だ。これから弁護士の竹田先生に連絡して相談してみるよ。これまでのお客さんに売ってダメという理由がわからないし、これからどうすればいいのかもわからない。とにかく竹田先生に話をしてからだ」
  二度、三度と鈴木がうなずいた。
「そうですね。やっぱりこういうことは専門家に聞かないと。それと、ご自宅のほうはどうでしたか?」
「こっちと同じだよ。ひどいありさまだ。家に置いてあった商品からパンフレット、それに新商品の企画書のデータが入っていたパソコンももってかれた」
「事務所のパソコンも全部もってかれました。社長がご自宅に行ってるとき、ちらっと耳にしたんですが、捜査に来ていたのはF署の人間だけじゃなかったみたいですよ。県警本部からパソコンの専門家が何人か来ていたらしく、事務所のパソコン3台とフロッピーやMOまで全部もっていかれましたから」
  顧客リストをはじめ業務に必要なデータが入っているパソコンはハピネスだけにかぎらず、現代では企業の心臓部といえるものである。そのパソコンが押収されてしまっては、とうてい通常業務などおこなえはしない。
「それでどうやって仕事をしろっていうんだ……」
「……」
  無言のまま同意した鈴木の表情に吉田は最悪の結末を読み取った。それは磯辺が捜査令状を提起したときからずっと吉田の胸に去来しているものであったが、その二文字だけは意志の力で封じ込めていたものだった。もし経営者である自分が「倒産」という言葉を口にすれば、それは現実となってしまいそうな気がした。そしてそれを口にした途端、鈴木や社員たちにとってはもうひとつの単語である「解雇」という未来が現実となり、失われた生活の糧をとりつくろうための試練が待ち受けていることを実感させるものになるだろう。
「おれたちはまっとうに商売してきたんだ。こんなことで倒産なんかしてたまるか」
  しかし鈴木の口から威勢のいい賛同の言葉を聞くことはできなかった。
  応接室を出た吉田は社員たちに鈴木との打ち合わせ内容を話して帰宅させた。居残ると申し出た鈴木も帰してから吉田は真っ先に顧問弁護士の携帯電話に連絡を入れた。しかしすぐに留守電に切り替わり、彼は薬事法違反容疑で強制捜査が入ったこと、至急連絡をくれるよう伝言を入れて電話を切った。
  それから自宅に電話し、捜査官たちが帰ったことを良子にたしかめてから、気をしっかりもつこと、自分たちはなにもやましいことはしていないことを改めて伝えた。
  受話器を置いた吉田はひとり取り残されて事務所を見回した。壁掛け時計はまだ午後二時をまわったばかりだった。あらかた事務所は片付いたものの、昨日まであった活気は消失し、祭のあとのようなわびしさが漂っていた。
  倒産などするものか。吉田は声にならない声でつぶやいた。