見えない真実 ~薬事法違反に問われた経営者の180日

電 話

 待ちに待った電話が鳴ったのは午後五時過ぎだった。反射的に壁掛け時計に目をやった吉田は時間の感覚が失われていたことに気づいた。自宅に電話を入れてからこれまで、見聞したくない現実の世界から逃避していたのかもしれない。あるいは近い未来に起こり得るあらゆる事態を想定しては、将棋名人のように百手先まで読もうとしていたのかもしれない。けれども事実は逃げることも立ち向かうこともできず、とりとめのない思考に翻弄されるまま、迷子の幼子のようにいずこかからさしのべられる救いの手を待っていたに過ぎなかった。
  そしてその救いをもたらしてくれるとしたら、それは顧問弁護士の竹田をおいてほかに考えることはできなかった。
「竹田です」と顧問弁護士が名乗った。「留守電聞きましたよ、吉田さん。どういういきさつだったのか、詳しく教えてください」
  いつもは無駄話の多い竹田であったが、単刀直入に要件を切り出した彼の口調はこれまで吉田が耳にしたことのない冷静沈着で重みのある声だった。そのことを心強く思いながら吉田は今朝からの経緯をつとめて主観的にならないように伝えた。
  ひと通り話し終えて返答を待つあいだ、吉田は受話器の向こうにだれもいないのではないかと錯覚した。それだけ長い沈黙があった。
「いまの話だけでは、状況がつかめませんね。いや、相手の出方がわかりません」
「どういうことでしょう」きょう一日だけでこのフレーズを何回繰り返したのだろうか。吉田は気が滅入った。
「捜査令状が揃っていたということは、相手もきちんとした裏づけをとっての強制捜査ということになります」
「それじゃあ、うちが薬事法に違反していたと?」
「そういうことになります。もちろんまだ捜査段階ですから、なんともいえませんが、押収した資料を先方が分析し、容疑が固まった段階でなんらかのアクションを起こしてくるでしょう」
「アクションというと……」
  受話器の向こうで竹田がいい澱む気配が伝わってきた。
「警察に呼ばれて事情聴取を受けることになるかもしれません」
「それは、逮捕されるということですか……」
  倒産という言葉だけでも重いというのに、そのうえ「逮捕」という二文字まで未来に立ち塞がっているのだろうか。吉田はますます暗澹とした気持ちになった。
「いや、可能性の問題です。立件できるだけの材料が揃わなければなにもないということも考えられます。現状では経過を見守るしかありませんね」
「先生、すぐお会いできませんか?」
  法律の専門家に聞きたいことが山ほどあった。しかし竹田の答えは彼の意にそうものではなかった。
「申し訳ありません。いま出張中なんですよ。明後日には戻りますから、午後に時間をとりましょう」
「それまで私はどうすればいいんでしょう?」
「普段どおりにしてください。慌てず、騒がずです」
「しかし」と吉田はいった。いま聞かなければならないこと、それがなによりも重要なことだった。「普段どおりといったって、どうすればいいのか。それに商品の販売についても、どうすればいいのかわからない」
  数拍おいてから竹田がいった。
「おそらく、〈ハピネスα〉と〈ハピネスβ〉ですか。このふたつの商品が今回の薬事法違反の対象になっているということでしょう。だからこれまで購入したひとに売ってはダメということだと考えられます」ほぐれた糸を解きほぐすように竹田の解析が続いた。

 竹田の解析はあくまで推測であって、それが事実であるのかどうかをたしかめることはできなかった。しかしそれでも法律の専門家と会話できているという現実は、五里霧中にある吉田にとってわずかの支えにはなった。
「広告であるのか、あるいはパンフレットであるのか。いずれかに薬事法違反に問われる文言があったと考えるのが妥当でしょう」
  気になるグレーゾーンがあったことはたしかだ。吉田は受話器を握り直した。
「しかし、広告も、パンフレットについても、制作段階で広告代理店や行政担当者にもチェックを仰いできたんですよ。それなのになぜ?」
「明確に問題なしといわれましたか? 大丈夫だと太鼓判をおされましたか?」
  そうなのだ、と吉田は思った。同年輩と思われる薬務局の担当者は名刺も出さず、吉田の顔を見ようともせずに、机に広げた広告原案に目を落としていた。

──この表現はいけませんねえ。
    間接的ではあるが明らかに効能効果を暗示している文言。それは吉田だって理解していることだった。

──ではどのようにすれば。

──あと、この箇所ですか。これも違反対象になりますね。
    わかりきった答えばかり。

──それじゃあ、この部分はどうでしょう?
    判断のつかない文言。吉田としては商品PRとしてぜひとも表現したい文言であるが、違反となるのか、ならない    のか判断のつかない微妙なキャッチコピー。

──そうですね、とにかく表現については気をつけてください。
    それで、おしまい。

「いえ……」と答えて吉田は口を閉ざした。決して明確な回答は得られない。
  それはわかっていたことであるが、それでも自分の行動の是非に対する拠り所が欲しいのだ。それは自分だけにかぎらず、健康食品に携わっている人間であればだれもが思うことではないだろうか。そして現実的には、そうした拠り所がどこにも存在しないのだ。
  おれたちはなにかまちがったことをしているのだろうか? 健康食品を作ったり、売ったりしてはいけないのだろうか?
「吉田さん」と竹田の声がした。「とにかくいま申し上げることができるのは、状況が明らかになるまで細心の注意を払うしかありません。ですから〈ハピネスα〉と〈ハピネスβ〉については、販売を自粛するなどの措置を取ったほうが無難かもしれませんね」
「無難かもしれません」の仮定形ではなく、「無難だ」と断定して欲しかった。自分がなにを求めているのか、だれもわかってくれない。
「わかりました、先生。それに、明日は臨時休業ということにします。いずれにせよ、いまできることはないようですから」
  そのことについて竹田はなにもいわなかった。明後日の午後、竹田の事務所を訪ねることにして吉田は受話器を置いた。
  孤立感がますます深まってきた。窓の外はすでに日が暮れ闇が迫ってきている。妻と娘の面影が浮んできた。もう幸子は家に帰っているだろう。留守のあいだにおこった出来事を子供らしい鋭敏な感覚で感じ取っているだろうか。いつもどおりに家を出てから、わずか半日しか経っていないのに、想像もできないほど遠くに来てしまったような気がする。
  はたして、これからどんな未来が訪れようとしているのだろうか。吉田には明日が見えなかった。長かった一日が終わるのかさえわからなかった。
  吉田は立ち上がり、事務所の電気を消した。